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- 2020.06.11 Thursday
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一年のうちのどこかで必ず一度は、太平洋戦争関係の取材を行いその土地にて何が起こっていたのかを掘り下げ当時の背景と重ね、考え、自分なりの見解も含めまとめていく。
知らなければならない歴史があり、その時代を必死に生きた人物達がいる。
春に、龍馬脱藩の道の旅を終え、愛媛を周り小豆島に渡る船にのるために香川県高松市に向かっている途中で、道端の看板に書かれた「敷島隊」という文字が一瞬目に入った。
通り過ぎながら、それがとても大切なことの名に思え、短い時間だったと思うが、時が止まるほど長い時間のようにも思える時の中で脳内の奥にあった小さな引き出しを開けることが出来たことは、幸運だったと思う。
敷島隊。神風特別攻撃隊、初編成隊の名称。
迷わず引き返し、看板の案内の方向に車を走らせたどり着いたのは、特攻作戦において初の戦死者とされる関行男の慰霊碑が建つ神社。
こちら愛媛県西条市は、最初の神風特別攻撃隊を指揮した関行男の生誕地であり、同市内にある楢本神社は、関行男をはじめ敷島隊の特攻で亡くなった5人の慰霊碑が並ぶ。
戦争末期の特攻隊は、有名であるが、その作戦が初めて開始されたのは、1944年10月21日のレイテ沖海戦であった。
そして、関行男率いる敷島隊が攻撃を行ったのは、10月25日。
この間、出撃するも、敵艦発見ならなかったり悪天候だったりと攻撃期日が作戦開始より数日後となる。
この間の搭乗者たちの心境は、想像を絶するものだっただろう。
10月20日に、ある記者が関のもとを訪れているのだが、前日の夜に隊長指名を受けた関は、顔面を蒼白にして厳しい顔つきでこの記者にピストルを突きつけ「お前はなんだ、こんなところへきてはいかん」と怒鳴ったという。
極限の精神状態による異常な行動とされているが、誰しも明日、自分の意思とは違うところであるにも関わらず、自ら命を捨てなければならないとなればそうなるであろう。
関は、この記者に対してこう話している「私は、天皇階下のためとか日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛の妻のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。私は、彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろ?」
日本の動乱と言えば、幕末と太平洋戦争であろう。
しかし両者の価値観は、対局なほどに違う。
幕末では、主に個人がおのれの主張を掲げ、それぞれのやり方で日本を守ろうとしたのに対し、太平洋戦争では、個人の意思とは関係なく作戦が遂行され、そこに身を投じる者は日本を守るという前提もあるがそれ以上に家族や大切な人を守るために戦ったように思えて仕方がない。
しかし、驚いたというかショックだった事は、慰霊碑の形が爆弾である事だ。
昭和56年に建てられた慰霊碑だが、特攻時に零戦につけられていた250キロの爆弾と同型の物らしい。
なぜ死してもなお、そんなものに縛り付けるのだろうか。
戦時中は、初の特攻作戦が、予想を大きく上回る成果をあげ、あとの戦後末期の特攻作戦へとつながっていく。
戦時中は、軍神と称えられ、軍事主義の宣伝材料とされた関行男だが戦後は、一変して日陰の存在となる。
歴史に「もし」は、ないが、それでも、もしこの特攻作戦が成果をあげていなければ、特攻隊というもの自体がその後なかったのだろうか?
考えても切はないし、人間魚雷の「回転」まで作り出した当時を考えれば、他の形での捨身攻撃を考えたのだろう。
関行男中佐が敵母艦を眼前にして何を思い何を考えていたのだろうか?
それは知る由もなく、極限状態である本人にしかわからないことだろうが、せめて「あなたのおかげでこの国は、戦争を永久に放棄した世界に類を見ない国となりました」と伝えたいです。
秀才で、スポーツも長けていた関行男。
享年23歳という若さであった。
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