春に訪れていた中東ヨルダンのお話。
14ヶ国目となるヨルダン。
イスラエルの隣で、その他、シリア、サウジアラビア、イラクと隣接する北海道ほどの大きさの国。
近隣の国々が、情勢不安定な状態が長く続き、2011年のジャスミン革命により飛び火したアラブの春の革命運動において、近隣国の状況は、以前にもまして厳しい状況となり、少ない天然資源などでやりくりしている経済の中、旅行者も少なくなり、町で見かける外国人は、とても少ない印象であった。
イスラエルから陸路で国境を越えた先に待ち構えるのは、タクシードライバーたち。
バスがあるのか定かでないが、ここから多くのツーリストは、タクシーで方々に移動する。
ヨルダンに寄ったのは、ぺトラ遺跡に行くためだったので、遺跡の近くの町までタクシーで行くつもりだったのだが、できるだけ行き先が同じ人とタクシーをシェアして乗ろうと思い、国境で知り合ったドイツ人も行き先が同じだったため、タクシーをシェアした。
しかし、胡散臭いのがタクシーの運ちゃんたち。
途上国や小さな町に行くと、だいたいぼったくろうと、かなりの値段で吹っかけてくるので値段交渉からとなり、特に初めて訪れる国だと物価を把握しにくくその交渉もやりにくい。
しかし、この場所は、一歩先をいっていた。
このいかにも胡散臭い看板を掲げ、これが正規料金だと説明して、かたくなに譲らない。
なんか、張り足し多くないか??
あれこれ交渉して、とりあえずその金額近辺で向かうことにした。
やしの木が立ち並ぶ。
休憩で寄った謎のほったて小屋。ヨルダンは、荒野という印象がとても強い。
二、三時間ほどかけてぺトラ遺跡の町、ワディ・ムーサに着く。
小さな町だがみんな優しくて雰囲気もよく、ヨルダンに好感を持った。
そしてぺトラ遺跡。
ここは、世界でもトップレベルで入場料が高い場所で、日本円でおよそ7500円。
「せっかくここまで来たのだから」と言い聞かせ、ヨルダンの物価を考えると法外とも思える金額を払う。
しばらくは、山の谷間を歩く道で、その先に現れるこちらが、この遺跡のメインとなる「エル・カズネ」。
ラクダがいて、お金を払うとここで記念写真を撮れるみたいです。
せっかくなので、エルサレムの誕生日に駆けつけて、その後ヨルダンを一緒に旅することになった友人とジャンプしてみた。
しかし、見事なものだ。
この場所に人が住みだしたのは、紀元前1200年前らしい。
この遺跡は、とにかく広範囲で、丸一日かけて周れるかどうか。
この地は、通商の中継地として栄えたが、海路の発達により衰退し、7世紀には歴史からその姿を消した。
砂に埋もれたこの遺跡が発見されたのは19世紀になってから。
こんな荒野に、こんなにも巨大な遺跡があるとは。
発見されたときは、さぞ驚かれたであろう。
そして、発見当時は、砂に埋もれていたらしく、その砂を掘り出す作業も、気の遠くなるような話しだ。
発見後、発掘が始まったのだが、現在でもまだ1%ほどしか全体を把握していないそうだ。
広大な敷地なので、ロバや馬などで移動する観光客も多く、その客引きがしつこいのが難点だ。
ローマ帝国の影響もあり、所々でそれを感じさせる。
ぺトラ遺跡は、1985年、世界遺産に登録された。
ちなみに「ペトラ」とは、ギリシャ語で「崖」を意味するらしい。
この地は、完全な岩礁地帯であり、農業には不向きであった。
雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過していったそうだ。
その対策として、この地に住む人々は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水設備を作っていたらしい。
2000年に近くも前のことと考えると、その知恵と技術は、大変興味深い。
上の4枚の写真は、「エド・ディル」という修道院の役割をしていた一番奥にある遺跡だ。
遺跡は、それぞれ岩の色が違い、中にはこの様に岩の波紋がとても美しいものもあり、とても印象深かった。
岩を削り作り出された遺跡の数々。
どれもこれも目を見張るものばかり。
それらは、いやでも異国情緒を強く感じさせる。
ライオンを象ったレリーフ。
もともとは、こんな頭が付いていたそうだ。
ライオンがいない土地でも、強靭な百獣の王の威厳は遠くまで伝わり、はるか昔から力の象徴のようなものがあったのだろう。
夕暮れまでかけて、なんとか一通り見ることができ、ペトラ遺跡観光を終えた。
はるかな古代ロマン。
心の奥に静かに響く古代の文明。
天気にも恵まれ最高の一日となりました。
そして、なぜか発掘を手伝わされた私。
全くもって発掘意欲を感じないこの労働力では、すべての調査が終わるのは、来世紀になりそうでした。
お忙しいご様子でしたが、こんなにすごい旅とすてきな写真を沢山撮っていらっしゃったのですね。
また写真を見せてもらいに、こちらへ遊びにきます。
お身体に気を付けて、こらからも頑張ってください。